それは93年の暮、茨響の忘年会の席上で堀やん(音楽監督)の口から飛び出した。「サントリーホールで演奏会をやらんか?」年末の稼ぎ時に、何故か茨城の寿司屋で忘年会に参加している堀やんは、かなり酔いが回っていたようで「(アムステルダム)コンセルトヘボウでもええよ」と口走るまでに至ったが、いずれにせよ忘年会の席上、大いに盛り上がった。
さて年も明け、そんな忘年会の余韻もすっかり冷めた頃に、事務局長(当時)の久野の元へ堀やんから電話が入った。サントリーホールの使用申し込みは1年半前とのことで、早く申し込めとのことであった。
さあて、困った。これを議題にした役員会は、荒れた。なにせサントリーホールで公演するだけで、膨大な費用がかかる。観客が集まるかどうかもわからない。地方のプロオケと間違えて入るんじゃないの、なんて楽観的なことをいう余裕もないくらい、緊張感のある役員会は夜中の12時過まで続き、賛成/反対同数の中、事務局長の決断で、とりあえず申込金は払うことになった。この時、賛成意見を述べた役員の多くは「若者」で、保守的な意見は「年配」に多かったが、茨響も社会の縮図ということであろうか。また、公演のための特別プロジェクトチームが編成されることになったが、「ここはひとつ、若い人を中心にがんばってもらって」という言葉と視線を今でも思い出す。
実現に向けて走りだしたはいいが、まだまだ問題は山積。まず、経費の問題。資金繰りがつかない。それから、観客動員の問題。茨城でも1,000人の観客を集めるのがやっとなのに、2,006席のサントリーホールを満席にすることなんてできるのか。とにかく、やれることからやっていくことにして知恵を持ち寄った。
幸いなことに、ナショナル住宅産業Mが協賛して下さることになり、資金繰りは少し楽になった。選曲もサントリーホールのオルガンを意識して、サン・サーンスの「オルガン」交響曲に決め、観客の動員をねらった。堀やんの紹介で、良いデザイナーに出会い、チラシ・ポスターはすばらしいものができた。チラシは都内を中心に合計8万枚を配り、東京の総人口の1%弱にチラシを配ったことになる。それでも、最後まで観客数の読みが難しく、いったい何人来てくれるのだろうと心配は尽きなかった。事務局長の久野は逆に観客が多すぎて、入口で謝っている夢を見て、眠れなかったそうだ。
そして、当日。東京まで渋滞もなく、団員を乗せたバスは予定通り、サントリーホールに到着。そして、リハーサル。いつもは客席から、来日する有名海外オケの公演をうっとりと聴いているあの舞台に、今日われわれが立つと思うと背中がぞくぞくした。堀やんは「大舞台に立つとアマチュアは、(雰囲気に)呑まれてしまうから」と諭していたが、堀やんも興奮していたようだ。熱の入ったリハーサルは、開場直前まで続いた。
そして、開場。なんと1,850名の観客。それも、申し訳ないけれど当日券の発売をストップしたそうだ。ほとんど満席になったサントリーホールに,興奮したのは私だけではなかっただろう。もっとすごいと思ったのは、茨響の底力。雰囲気に呑まれてしまうどころか、堀やんの指揮のもと、実にのびのびと生気あふれる音楽を生み出した。舞台の上では、あがるというより何かにとり憑かれたような感じになって、音楽に集中していたように思う。今も公演のCDを聴き返してみると、本当にこんな演奏ができたのかと信じられないような瞬間であった。
公演は大成功に終わり、心配していた決算もなんとか赤字にならずに済んだ。帰りのバスでは、アルコールの作用で意識をなくした者や人格の変わったものが続出したらしいが、これも夢の余韻の無礼講としよう。公演がうまくいったことで、それまでの苦労やストレスは飛んで行ってしまい、また記念公演をやりたいな、と思っている今日この頃である。この場をお借りしまして、記念公演にご協力くださいました方々に、深く感謝申し上げます。
(文:サントリーホール公演特設プロジェクトチームリーダー 井口聖一)